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武侯祠
武侯祠は三国時代の劉備玄徳、諸葛孔明などを祭っているところで、成都の南にあります。紀元223年四月劉備玄徳は白帝城で亡くなってから、諸葛孔明はかれをここに埋葬するときから今までもう1780年ぐらいの歴史があります。
入り口には黒いかげの壁があります、それは中国礼儀の一つで、また中には重要な人物が祭られているからです。
みなさん 玄関には漢昭烈廟と書いて あります、武侯祠と書いてありません、これはなぜですか?と言うと現地の人は昔から身分が高い、名高い人は普通功績を建てた人に負けるわけだと思いますので、諸葛孔明の手柄は百代までも続いていくでしょう。右側は清の時代武侯祠の全系図です。左側は1964年武侯祠が国の重要文化財になるときの記しです。
こちらへどうぞ、これが武侯祠の説明書です。武侯祠は三国時代の蜀の宰相諸葛孔明を祭るお寺です。敷地面積は4へクタールです。昔 劉備玄徳の廟のとなりですが、明の時代の時合併していまの規模になったのです。いま展示されているものは大体1672年の時のものです.中には三国時代と関係がある塑像、鼎、太鼓、碑などの文物が合わせて200件あまりあります。その時代の物語が説明できるでしょう。
こちらは武侯祠の全系図です。現在地はここです。これから見物の手順を説明しますとまず三絶碑と呼ばれている碑を見て、その向こうの明碑をもついでに、それから、二門を経って真っ直ぐ劉備玄徳の殿に着きます、それから文官廊と武将廊、そのあとここを通り抜けて劉備玄徳の殿へ行きます。後ろの三義廟を見たあと最後、劉備玄徳のお墓へ参ります、休憩はすぐとなりのところにあります 三国時代と関係がある記念品もあそこにありますので。
はいそれではこちらへどうぞ。これが三絶碑です。この碑の高さは2.9メートルで厚さは大体20センチぐらいです。これが唐の中期の宰相裴度という役人さんが書いたものです。全文は諸葛孔明を褒め、漢王朝を回復するため死ぬまで 一生懸命頑張ったことを三唱しましたし、唐の時代の時 諸葛孔明のような有能な人が見つからないという実現をも感嘆しました。陳壽による「三国志」という歴史の本にははその時の事実が記述されています。それを読まないと三国時代のことはもちろんわからないということです。またそれは高い価値があるのは唐の時代有名な彫刻の師匠の作品だからです。やりかたは独特で、流暢的な刀の技巧に凝らしたものです。もちろん一つの絶になっています。この三つの絶がありますので三絶碑と呼ばれるようになりました。この碑の表には修繕されたので新しく見えますが、裏には一部の文字がはっきりしていません。もともと、この碑が外に置いて、ずっと雨風に晒されていて1987年ごろ現地の市役所はこの小さな東屋をつくり、これを保護しています。
はい そちらへご案内しましょう。これは明碑と呼ばれて、名前の通り、明の時代に、この武侯祠の規模や、文物の所蔵などの様子を記述しています。ですから、武侯祠の歴史を研究するうえでこれが貴重な文物になっています。下の動物について二つの言い方があります、一つは亀(日本では“鶴は千年亀は万年”という言い方がありますが)かめが重いものを乗せるのは得意だそうですから、ここで吉祥のシンボルを表しています。(おめでたいですね)北京の故宮博物館の太和殿にも同じなものがあって、皇帝さまの権利の意味もあります。もう一つの言い方はこれが亀じゃなくて、竜の息子でビーシと言われています。もともと、このあたり、よく水害が起こり、その亀は水害の源なので、それを処罰するため、また世間の人々にこれから悪いことをしないでね、もしやったら同じように処罰するよというふうに警告しています。武侯祠のすべての物事には人間の愛と恨みの感情が含まれています、諸葛孔明のような忠実な人はいつまでもみんなに偲ばれているわけで、悪いことをする人はいつまでもみんなに嫌がられています。ここに来ればその先人の気持ちがよくわかるでしょう。
皆さん向こうはそれぞれ清の時代の碑が三本あります。羅漢中が書き直した三国演義という小説は清の時代もう全国で流行って来ました。それについての物語は民間で落語や、劇とか、いろんな芸術を通じて伝わって来ました。そういうことは殆どここに記載しています。
はい ここは二門です、この上に明良千古と四つの文字が書いてあります。明という字は古い文字ですから目辺になっています。それは賢明な劉備玄徳はその目が鋭いという意味です。当時もし一対の鳳凰と例えられた諸葛孔明と庞統二人のなかで一人をもらえば天下が統一できるという言い方がありますが劉備玄徳は人材を求めるため何度も頼んで、やっとその二人の協力を得て蜀の国を作り出したのです。良という字は素晴らしいということで、この塑像館の両側には蜀の国の幕僚はみんな素晴らしい人という意味です。千古は千年後まで続くという意味です。両側のタイレンには劉備玄徳は祖孫、父子 兄弟、君臣などの力を合わせて天下の人々が希望のような正統の漢の時代を争って生きても亡くなっても平気ですよ。斉、楚、幽、燕、呉、越、蜀各地を経て、やっと蜀の国が出来上がって、これは何より難しいことでしょう。だからこの建国の英雄を記念するため、このお寺を作ったわけです。要するにそれ以上は劉備玄徳と幕僚の人々を褒めている言葉ですね。
それから中へ入りましょう。正面には劉備玄徳の塑像です。この前に一体の鼎がありますね。中国には三本の足がある物は鼎です。昔この鼎には紙銭を焼きますが、紙銭と言うとつまり昔の中国人は亡くなって、天上に昇ってからお金が無くて生活ができませんから生きている人はお金を焼いて亡くなった人に上げるという気持ちを表しています。でも本当の一万円札などのお金を焼いたらもったいないですね、ですからその代わりに偽札のお金を焼きます。四本の足がある物は香炉です。後でまた説明しましょう。この物は昔清の時代の皇帝さまが自分の娘さんがお嫁に行くとき彼女にあげたプレゼントです。ですから、六匹の龍の図案があります。ここに置いたのはここが皇帝さまの所ですよ、と言うことを強調し、また皇帝さまの位と権力も説明しています。
この両側には二本の楠の木があります。昔杜甫は“丞相の祠堂なんの所にか尋ねん、錦官城外 柏森森たり”という有名な詩があります。要するに昔このあたりには柏の木がたくさんありました。でも、この千年ぐらいの変遷を経てその時の柏の木はほとんどなくなりましたが、この古い道を歩いたら昔の時代のことを思わず知らず思い出されるでしょう。
はい、この上をご覧になってください。「業紹高光」という四つの文字が書いてありますね、「業」は功績と手柄ですね、つまり劉備玄徳が蜀の国を建てること、「紹」は当たりのこと、「高」は中国の前漢時代の皇帝さま劉 邦と言うもの、「光」は後漢時代の皇帝さま劉秀と言うものです、要するに劉備玄徳が蜀の国を建てる手柄は自分の祖先の前漢時代の皇帝さま劉邦と後漢時代の皇帝さま劉 秀の功績に当たります。つまり劉備玄徳を褒める言葉ですね、正面には劉備玄徳の塑像です。劉備玄徳は河北省の生まれで生年月日は詳しくない、四十歳ごろまで むしろを編みながら暮らしている流浪の一人にすぎないですが、また幼いごろから勉強が嫌いでしたが友達と付き合うのは気が進んでいました。その時、丁度黄巾党が乱を起こし、庶民の生活が苦しくて、百姓を救うために劉備玄徳は自分の兵隊を連れて黄巾党を鎮めようと思ったんですよ。それで 張 飛、関 羽と桃畑の木のしたで義理を尽くし、義理の兄弟を結びつきました。これが歴史上で有名な「桃園の義」と言う物語です。その後、諸葛孔明らの助けのおかげでやっと紀元219年の時、蜀の国を建てました。紀元223年時、関 羽の仇討ちするため劉備玄徳は誤りに呉の国に出兵しまして、翌年の四月敗戦され、 憂いな気持ちで病気に掛かり、亡くなってしまいました、亡くなる前自分の子供二人を諸葛孔明に頼んで、もし子供が良ければ子供を手伝ってください、だめならばそれをやめて自分で皇帝にしてくださいと諸葛孔明に言いつけましたが、みんなの前でこの言葉を言い触らしたんですから、諸葛孔明が亡くなるまで ずっと誠心誠意で、一生懸命国のため頑張っていました。自分が皇帝になりたがったですけど、しまいにならなかったのです。これが有名な「白帝托弧」と言う物語です。
ほらその劉備玄徳の塑像をご覧になってください、その帽子は特別で皇帝だけかぶられる帽子です。顔の前に垂れているものは“冕”と言われ、その流れが十二本あって、皇帝の身分の印しです。また、その顔つきは金色で皇帝の威厳の表しです。劉備玄徳は顔が大きく、目とか眉とか口とか細長く、特に耳が凄く大きいです。中国で耳が大きい人は普通幸せな人だと言われていますが、それに劉備玄徳は手も意外に長くて膝のしたまで伸びているそうです。もし誰かが膝のしたまで伸びられれば教えてください、きっと総理大臣になれるんですよ。占い師の話によりますと劉備玄徳の顔つきだけ見ても正々堂々の皇帝の顔だと分かるそうです。だから当然その蜀の国は正統の漢の国です。曹 操の魏の国とか、孫権の呉の国とかみんな正統な国じゃない、天下の人々を騙していること、信じないほうがいいですよ。また 曹 操は自分の武力で天下をもらった、劉備玄徳は涙で天下をもらったのですよ。要するに劉備玄徳は情け深い人、人情味がある人、何にか悲しいことを聞いたら直ぐ涙が出るわけ、それで涙で天下の人々の心を取りました。社長として人情味がない、或いは社員の生活などを無視したら危ないですよ、とにかく、劉備玄徳が部下を大事にする腕は今でも意味深いですよ。そして劉備玄徳についていろんな物語があります。例えば 酒を煮て、英雄を論じるとか、徐 州を三回譲りとか、夷 陵の戦いとか、いまでも民間で流行っています。ここではすべて説明できませんからご了承ください。その右側をご覧になってください、これは劉備玄徳の孫で劉 勘の像です。紀元263年蜀の国が滅びている前彼は必死になって魏の兵隊に抵抗しましたが自分の兵隊が少ないため負けてしまいました。それで 家に帰り、家族を首にして、自殺しました。その時 ただ十八歳だけですよ、国のために命を奉げたので、かれの像はまだここにおいてあります。歴史の本にはかれについて詳しく書いていないですが、やっぱり英雄の一人として人々に祭られています。はい、ここには《隆中対》と言う文章が掛けてありますね、「隆中」は地名でいま湖北省の中部にあり、昔諸葛孔明があそこに住んだことがあります。「対」は二人の話しです、いわゆる隆中での二人の話です。紀元207の冬劉備玄徳が人材を求めるため、三回ほどそこを尋ねたことがあります。これは歴史上有名な「三顧の礼」と言われている物語です、一回目と二回目は諸葛孔明がちょうどいなかったんですが、三回目の時劉備玄徳が諸葛孔明とやっと会いました。劉備玄徳の誠心誠意を感謝するため諸葛孔明はその時の情勢を分析し、まず四川省、貴州省、雲南省など中国の西南部のところを収めて、呉の国と同盟を建てて、強い曹 操と対決し、チャンスを見て全国を統一しましょうと勧めました。劉備玄徳が諸葛孔明の才能に頭が下がっていましたので言うとおりに頑張りました。結局 魏、呉、蜀三つの国が形成出来ました。ですから《隆中対》と言う文章がないと三国時代がないと言う言い方があります。《隆中対》はかなり的確に事態の発展を予見しておりますから、これも三国時代のとき一番重要な文章の一つです。この文字は1964年ごろ中国の有名な書道協会の責任者沈伊默先生が書いたのです。代表的な楷書の作品です。はい、隣の所へどうぞ。これは関羽の殿です。この上をご覧になってください、この上には義薄雲天と四つの文字が書いてありますね、中国では“君と君の付き合いは水の如し”という諺があります。関羽は義理の人間で義理は関羽にとって要するに命より大事なことで、虹のように美しい。雲と天は関羽の義理と比べたらまだ薄いと言うことです。
はい、こちらへどうぞ。これが関羽の像です。その帽子は劉備玄徳と同じです。元の時代、封建社会の統治者は忠誠し、有能な人が求めてほしいですから、関 羽を皆が学ぶべきな手本として大事にするようになりました。その時から今まで、関羽を「関皇帝」或いは「関帝」と呼ばれるようになりました。至る所で関羽を記念するお寺を建て、皆関帝廟と呼ばれています。これは普通の武将としている関羽が皇帝になった原因です。ですから関羽は劉備玄徳と同じような帽子を被っています。しかし彼の流れはただ十本があり劉備玄徳より一本ぐらい少ないです。中国の歴史には皇帝さま以外、武将の中でこの帽子が被られる人はただ関羽だけ、文人の中ではただ中国の聖人と言われている孔子です。これで関羽の身分はなんと高いことが説明できるでしょう。関羽についていろんな物語がありますね、例えば、一人で千里を走る、五つの関を通し、六人の武将を首にするとか、単刀の出会いとか、要するに関羽を描写する文章とか、劇とか、ドラマとか、映画とか いろいろありますよ。三国時代の時、関羽はまた五虎大将の一番目五虎大将と言われました、つまり、虎のような(勇ましい)勇猛な武将は蜀の国で五人がいます、みんな凄い武術を持っていますけど、その中でも関羽は一番武術が強いです。はい、それは関羽を記念するため作った木製の刀です。昔関羽が使われた刀は80キロ以上の重さまでもあるそうです。
この隣には関羽の息子二人、つまり関興と関平です。関興は蜀の国の後半期国に役に立った人物の一人で何回も諸葛孔明について魏の国に出征したことがあります、最後病気にかかって、なくなったのです。関平は関羽とともに呉の国に捕まれちゃって首にされました。本当は頭がかんぺいじゃないですよ。こちらは関羽の部下の周倉の像です、伝説的な人物です、いつも黒い顔つきをしている勇猛な武将の一人で結局関羽と一緒に首されちゃったのです。
はい、こちらへどうぞ。こちらは文官廊です。全部で十四体の塑像があって蜀の国の時代、国のために一生懸命頑張って命までも捧げた文官の顔つきです。みな忠誠する人ばっかり、法正と言うような三国時代の人物の像は残っていない、という原因としてはあの人は劉璋と言う軍閥のほうから劉備玄徳に降参したのですから。要するにここに展示されている人物の像は裏切り者がいないのです。
はい 始めての像は庞統です。字は士元で、湖北の荊州の生まれ、幼いごろから賢く勤勉なので若いごろ地元の劉表の幕僚になったことがあるそうです。そのあと孫権、曹操の幕府に入ったこともあるそうです。顔つきがみっともないし、言葉も傲慢で人に喜ばれなかったのです。諸葛孔明の紹介で劉備玄徳のところに入ってからすぐその知恵を付けました。赤壁の戦いの中で曹操軍の船と船が繋がっていることを巡って諸葛孔明と周瑜に勧めました。それで諸葛孔明と周瑜の兵隊で80万ぐらいの曹操を打ち破りました。一番目の手柄を建てたのは諸葛孔明と周瑜じゃない、庞統だと言えるでしょう。彼は諸葛孔明と一緒に一通の鳳凰と例えられています。諸葛孔明は雄で彼は雌です。要するに二人の才能はほぼ同じです。そのとき二人中で一人をもらえば天下を安定させることができるという話はそのとき流行っている言葉です。ただ惜しいことは36歳の若さでなくなってしまったそうです。成都を攻め落とす前に白い馬に乗ったら危ないと思いまして、劉備玄徳の代わりに白い馬に乗ったんですから矢にやられてなくなったんですよ。その時現地の軍閥張任と言う人は白い馬に乗る人が必ず劉備玄徳だと思って、戦い始めてからほとんどの弓で白い馬にやを射て、庞統が馬から落ちてなくなってしまいました。庞統がその時もし亡くならなかったら中国の歴史は今と違って変わるかもしれないと言う話があります。要するに庞統の勧めに従って絶対関羽は勝手に呉の国へ出兵することはしません。それで劉備玄徳も呉の国に出兵しません。三国誌は恐らくその内容が変わることになるでしょう。今でも成都の北に今では彼を記念するお寺があり、庞統寺と呼ばれています。彼の生まれ付きの黒い顔、長い髯はその時ではかっこいい、美男子だと思われましたよ。
はい こちらへどうぞ。これが簡雍の像です。文官の一人はお喋りが得意だそうです。幕僚として劉備玄徳と話しているときよく冗談を言い、面白いですから、劉備玄徳はこの人が好きになって自分の妹も彼に紹介しました、噂によりますとこの人は胡麻をするのが得意だそうです。(胡麻をするのは中国でも歴史がありますね)しかし頭がいい人ですから、いろんな道理が入っている言葉を喋っていました。例えば料理がいろんな味があって調味料を辛く入れないと出来た料理は辛すぎ、甘すぎ、塩辛すぎになります、同じように百姓との関係が上手にしないと政権がいろんな隙間があって崩れてしまうわけです。それでときどき下のほうへ行って、百姓の生活の様子に気を配ったほうがいいでしょう。蜀の国はその時、酒で刑事の事件がよくおこりました。劉備玄徳は酒を禁止する命令を出したいと思ったのですが、簡雍に意見を求めました。簡雍はちょっと考えて、そばの二人の男女を指で指して、二人はみんな男の生殖器と女の生殖器を持っているのに、犯罪した人ですから、捕まえるわけがないでしょう。同じとうに、酒は悪いものじゃない、ただ飲みすぎるとだめでしょう。だから、禁止とはいえない、限定するのは必要でしょうと言いました。劉備玄徳は簡雍の言うとおりにやりました。
ええ、三番目の人は呂凯です。少数民族を管理する上で役に立った人物です。普通、背が低い人は頭がいいと言われていますから、雲南省の出身のこの人は背がずいぶん低いですから、頭がいいですよ。戦うより心を攻めるのは第一と言う諸葛孔明の政策を真面目に遣り続きましたので、就任するとき、一度の反乱もなかったですよ。
はい、五番目の人は傅统です。劉備玄徳の警備として、紀元222年に夷陵の戦いの中で、敗戦された劉備玄徳を援護するため戦死されたものです。
六番目は日本人も大変お馴染みの費緯と言う幕僚です。紀元223年、壊れてしまった両国の関係を回復するために諸葛孔明に派遣され、出発する前、見送りに来る諸葛孔明の手を握りながら、“千里の道は一歩から”と言いましたから、後は諺になりましたので、人気者になりました。
はいその後は董允、登芝、陳震、蒋碗などの人物はここで省略させていただきます。
それでは、出師の表をご覧になってください。書道の作者は中国の南宋の有名な武将の岳飛です。流暢な書きかた、達筆な書道、力持ちの署名、いずれにしても中国の書道の上品ですよ。前半は諸葛孔明が227年に初めて魏の国に出兵したとき、皇帝の劉禅に差し上げた上奏文です.中には賢い大臣に親しむ、意地悪い人を離したら、国は盛んになると言う道理を詳しく述べました。そして、劉禅に人材を薦めました。また、白帝城での頼みの責任を実現するため、または、三顧の礼の恩返しするために死んでも漢王朝を回復する決心も十分に表しました。後出師の表は街亭と言う所で失ってしまってからこれが諸葛孔明がもう一遍奉った(ささげた或いは”呈する”)文章の一枚です。後世に大変な影響をもたらした“国のために力を尽くして、死んでもやめない”と言う言葉はここから出たのです。南宋の有名な武将の岳飛はこれを書道にするとき、非常にドキドキと嘆きまして、涙もぽろぽろ流れてしまいました。昔から出師の表を読んたら、涙が出ない人はいないと言う言い方がありますが。皆さんは同感ですか。涙が出ましたか。また、この書道も楽しんでください。同じな文字ですけれども、書き方が違いますから、いろんな形になっていますね。前文から見ると前半はちょっと気持ちが落ち着いているような感じがしましたが、だんだん早く書き始まったので、前半の楷書から草書に変わったのですね、要するに、気持ちがだんだん興奮になりましたね。はい、それでは武将廊へ行きましょう、さきほど、説明申し上げたように劉備玄徳より近いほど身分が高いですから、先ず、身分が低いひとから、説明いたしましょう。これは冯習の像、これが張南の像です、二人とも紀元222年に夷陵の戦いの中で、戦死されたのです。張疑と馬忠は後半期の時に役に立ったひとです。付剣は向こうの付侗の息子で綿竹で諸葛孔明の孫と息子と一緒に戦死されたものです。はい、向宠は出師の表の中で諸葛孔明に薦められた人です。廖化は古い武将の一人で最後に病死されたのです。はい、この年寄りの像は黄忠です。年をとっても武将が強い、62歳でもまだ一キロぐらいのご飯が食べられるそうですから、五虎大将の五番目になりました。漢中を奪い取りましたので、劉備玄徳は“亀の甲より年の甲”と褒めました。白い眉をしている黄忠を記念するために、いま地名の一つもその名前を使ったのですよ。はい、これが姜維の像です。諸葛孔明の後続きで、九回ほど、魏の国に出兵したことがありますけど、結局中国を統一することができなかったので、自殺しました。馬超は五虎大将の四番目です。曹操が一番怖がっている人です。生きている間に、蜀の国の北側が安全でしたし、百姓にも喜ばれているひとですよ。はい、王平は三国時代の有名な物語“泣いて馬漱を切る”の中に出た人物です。ご存知ですね、幼いごろから勉強不足で漢字が十個しか書けない彼は真面目な人で、死ぬまで国のために力尽くしましたから、いい顔を作って、きちんとここに置いたのですよ。隣の張翼の像はちょっと目つきが鋭いですね。きつい顔をしないと武将とは言えないでしょう。まあ、古い武将の張翼は姜維とともに魏の国に征伐するとき、矢に射られて亡くなったそうです。はい、この二人の着物から見るとやっぱりその時代の大将軍の様子ですね。孫乾はいまの軍事参謀長官みたい身分で、真面目に国のために、全力を尽くした人です。趙雲はそのとき、もう長生きできた人ですよ。伝説によりますと、ある日突然にいいニュースが耳に入って、大喜びでお酒いっぱいを飲みました、それでよっぱらになりまして、病気にかかって亡くなりました。何の病気ですかと言うと恐らく、脳益血だそうです。何のお酒を飲んだらのですかと言うと、恐らく、マオダイ酒でしょう。だから、お酒を飲みすぎてはいけないですね。でも、武将が強いですから、国のために、手柄を建てたので、やっぱり、この人は五虎大将の三番目ですよ。はい、武将廊にはなぜ魏延の像がないのかというとやっぱり、あのひとは諸葛孔明が亡くなってから、反乱を起こしましたから、塑像を作るわけがないでしょう。
はい、次は張飛の像をご覧ください。たまごのように目玉を開けたままの塑像は誰でも怖い感じが与えられていますね。劉備玄徳の義理の弟、五虎大将の二番目ですよ、長坂坡と言うところで、一人で数十万人の曹操軍を逃させた物語は中国で知らない人はいないと思います。関羽の仇討ちするために呉の国へ出兵したとき、寝ているうちに自分の部下の二人に首にされてしまったので、寝巻を掛けたままの塑像です。伝説によりますと、張飛は寝ているとき、まぶたを閉じないそうです。ぐうぐう寝ているそうです。怖いでしょう。皆さん、張飛の奥さんは一番困るひとですね、しかし、結婚したかどうか、三国誌に乗っていませんでしたから、わからないですよ。こちらは義理の息子、あちらは孫ですけれども、孫は息子より、ちょっと若く見えるのは亡くなった時の年齢はちょっと若いですから。
この上の額をご覧ください、誠貫金石ですね、つまり、張飛は死ぬまで義理の人間ですし、国を物凄く大事にしていますから、その意志は金石までも貫くという意味です。何より手柄がうまい人でしょう。
こちらへどうぞ、壁に載っている先主伝は劉備玄徳の一生の纏まりです。最初の生まれから、亡くなるまでの主なことはほとんどここに載っていますから、難しかった一生でした。そこには空いていますね、昔、彼の息子の劉禅の像があったのですが、無能で国までも失ってしまいましたから、一時その像があっても、結局取り外されてしまいました、「楽しくて、蜀を思いやらず」と言う諺がそれでうまれたのですね、それでは、こちらへどうぞ、はい、階段から下りましたね、何故かと言うと、劉備玄徳は蜀の国の皇帝さまで、諸葛孔明は何と言っても幕僚で、身分はやっぱり低いですので、階段から下りたわけです。この上をご覧ください.武侯祠と三つの文字の作者は郭沫若先生です。「武侯」は諸葛孔明の贈り名です。前は劉備玄徳を祭っている所で、後は諸葛孔明を記念する所です。ここではっきりと区別されていますね、はい、ここにはまた、諸葛孔明を褒める對聯が沢山掛けてありますね。ここの道を通ってから、諸葛孔明が目に入ります。屋根の下に弥勒菩薩の像が置いたのは二つの言い方があります。一つはただの飾りだけ、もう一つは名人の諸葛孔明を迎えるために仏教の中で極楽世界の聖人の弥勒はわざわざ天から下りて来て、ここで、礼儀をしていますし、また、ここを守っていますからです。欄には色々な塑像が見えますね、それは少数民族が諸葛孔明を偲ぶために、わざわざ作ったのです。と言うのは諸葛孔明が生きているとき、沢山の農具を発明して、後世に優れた技術をもたらしたわけです。この上には龍の息子、好 望の像もありますね、やっぱりこの建物がいつでも無事で火事などもなにも無く、安全のためですよ。中国式のこの建物は立派で、壮観な感じがありますね。はい、目の前には「名垂宇宙」と四つの文字がありますね。諸葛孔明はいつまでも人々に偲ばれる人物ですよと言う意味です。じゃあ、中に入りましょう、羽毛の団扇を持って、穏やかな顔つきをしている像は諸葛孔明の像です。紀元181年、山東省の生まれで、27歳まで、湖南省の北にある襄陽の隆中でずっと晴耕雨読の生活を送った諸葛孔明は勤勉でよく勉強しましたので、同時の人気者になりました、劉備玄徳は彼のことを聞いた後、紀元207年の冬、三回ほどその家を尋ねました。悩んでいる質問を聞き取ったあと、諸葛孔明は天下の勢いを分析したうえで、劉備玄徳に先ず、四川省、雲南省などの中国西南部を占領して、呉の国と同盟を建てて、強い魏の国と抵抗して、チャンスを見て、全国を統一しようという提案を出しました。後世の人はその二人の話を纏めてから、隆中対と呼ばれています。今の総理大臣に当たる諸葛孔明はそのとき、少数民族の反乱を治めるために、七回ほど孟獲と言うボスを捕まえて、七回ほど放しました。何故かと言うと少数民族の人間の心を貰うためです。中国全国を統一するために、六回ほど魏の国に出兵して、全部失敗しましたが、劉備玄徳の委託を受けて、漢王朝を回復するため、一所懸命努力した精神はいつまでもここに残っているでしょう。もちろん、諸葛孔明についての物語は多すぎて一週間にも話しきれないですから、ここで省略させていただけないでしょうか、はい、左側には大鼓の一つを掛けてありますね。近づいて見たら、六匹の蛙の像が載っていますね。雲もあって、宇宙の変わりの飾りです。実は元々、これが、西南の少数民族の炊事用品の一つです。諸葛孔明は南へ征伐するとき、これを見つけて、昼間はご飯を炊き、夜、一旦戦うとき、これを叩いて警報を発しますから、人々はこれを諸葛大鼓と呼びました。この鍋は銅で作られ、大体二十人分のご飯ができるもので、皆さんはどう思いますか。前人に知恵に感心しているでしょう。はい、右側には杜甫が昔、ここを尋ねて、自分の感想を纏めてから、書き出した詩も見えます。蜀相と言う詩ですね。はい、こちらへどうぞ、諸葛孔明の孫と息子の像です。二人とも、紀元263年の時、魏の国に攻められている時、自分の国を守るために、綿竹と言う所で戦死されたのです。三代とも、国のために命を差し上げたので、ここで一堂に集まって記念されたのです。はい、この上の棟木(むなぎ)をご覧ください。淡 薄 明 志、寧 静 至 遠と八つの文字が見えるでしょう、これは諸葛孔明の子供を戒める本から、出てきた言葉です。要するに、素朴な生活ならば、志が明るい、静かにしたら、その考えが遠いと言う意味です。これは中国の道教の思想で、つまり、自分の欲望を抑えれば、志が遠くても、実現できると言うことですね、特に、身分が高い人にとって、最も、大切なことです。皆さん、よく覚えてくださいね。はい、皆さん、玄関にはまだ、全国でも有名な対聯の一つ、心を攻める対聯だと言う名前ですけど、意味は心が攻めれば敵が自ずから消えていくという意味です。大昔から兵隊さんが分かる人は戦争が嫌いです。次は勢いを旨く分析しなければ作り出した政策は厳しいかいいか、皆、誤りが出てきます、後蜀の国を治める人は深く考えなさいと言う意味です。これはその時代の馬 谡と言う軍事参謀長官が諸葛孔明に勧めた言葉です。つまり、戦うより人間の心を攻めるのは第一です。心が貰えば天下が貰えます。勢いは何時も変わっていますけど、当時の実際の状況に適した政策を作るのは大切なことだと言う国を治める方針をはっきり述べています。現在の偉い人にとっても、大変参考になる言葉でしょう。はい、それでは、次の三義廟へ参りましょう。
はい、ここに祭っている人物は劉備玄徳とその義理の兄弟の関羽と張飛です。桃畑の誓いと言う物語を記念するために、わざわざ作ったのですが、もとの場所は市内の繁華街にありますから、約十五年前にここに、引越ししてきたのです。中には三国時代の物語の碑がありますが。はい、側の所には喜神坊と三つの文字がみえますね。それは現地の風俗習慣の一つです。毎年の旧暦の一日から十五日まで、武侯祠を遊覧する習慣があります。所謂喜の神を迎えるためです。でも、喜の神と言うと誰ですかと言うと、劉備玄徳とその義理の兄弟の関 羽と張 飛この三人ですよ、もしこの三人が自分の家を尋ねたら、今年は安全で無事に楽しく過ごしますよ。その時、現地の人はここにきて、三義廟を拝見してから、三人の人形とか、玩具とか、絵とか、買ってもらって家に持ち帰り、守りの神様として、大切にします。もちろん、その時、踊もします。
はい、次は劉備玄徳のお墓へ行きましょう。「千秋凛然」と四つの文字の意味は男一匹の劉備玄徳はいつまでも威風堂々にここに住んでいて、人々に偲ばれています。
漢昭烈陵と言うのはつまり、ここは蜀の皇帝さまのお墓ですよ、と言う意味ですね。昭烈は劉備玄徳の贈名です。陵はお墓の意味です。高さ12メートル、周りは180メートルです。紀元223年の4月に、劉備玄徳は夷陵の戦いのせいで、白帝城で病死したのです。でも、このお墓は本物か偽物か今まで、まだはっきりしていないのですよ。本物と言うのはここが都ですから、皇帝の劉備玄徳は亡くなってから、当然ここに埋葬するべきですね。しかも歴史の本に載っていますよ。偽物と言うのは昔、白帝城はここより、随分離れていますから、飛行機もバスもない時代には馬車だけ利用しますね。都の成都まで運んでくるのはなかなか難しいでしょう。途中で腐ってしまうよ。しかも、この千年ぐらい、一度も盗まれたことがないでしょうか。これについて一つの物語が昔から、ずっと伝わってきました。大昔、唐の時代の時、この近くに住んでいる泥棒がいました。貧乏な二人はいつも意地悪く考えました。ここは皇帝のお墓なあ、中にはきっと宝の物がいっぱいあるでしょう。良し、取ろうと決めました。ある日の夜、真っ暗の夜、五本の指を出してもなかなか見えない夜、二人はこっそりで穴一つを作りました、中に入ってから、あら、ちょっと声が聞こえそうな感じ、近づいたら、あれ、劉備玄徳は諸葛孔明とちょうど囲碁を差しています。関羽と張飛の二人は側に立って、じっと見ている!二人はびっくりしました。慌てて逃げろうと思っているとき、“ちょっとまって、せっかく人間社会から下りて来た人間ですから、酒でも飲ませてねえ”と声を掛けてきました。二人は慌てて手伝いさんから マオダイ酒を貰って一気に飲んでしまいました。それから、駆け足で穴から、逃げ出して来ました。その瞬間でちょうど空中から、大きな雷の音が下りて来ました。しんどいですね。はい、二人は村に帰ってから、すぐ病気に掛かりました。ひどい病気ですよ。それでなくなりました。だから、劉備玄徳のお墓を発掘してはいけないと言う噂はこの当たりに流行ってきました。それに、今でも、近くに住んでいる人は大体分かっていますので、お墓をこのまま大事にした方がいいでしょう、でも 本当の原因は二つあります。一つはもし、発掘したら、中の文物はなかなか大切できないですし、万が一壊されたら、一生の残念になるでしょう。もう一つの原因は地面に置いてあるお墓ですから、子孫のためにも、残りましょう。それで、今でもまだ、1800年前の様子が見えますね。先ほどと同じように鼎一つはそこに置いてありますね。やっぱり、身分と権力の印しですから。
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